松江の和菓子文化
Japanese confectionery culture of Matsue
散策すれば和菓子屋。
菓子処 松江という町で
生まれて。
水の都として知られる城下町松江は、京都・金沢と並んで茶処・菓子処としても有名です。
散策すれば、いくつもの和菓子屋を見かけることができます。
ショーケースの中には色とりどりの生菓子が並んでいますが、その美しい菓子は決してよそ行きのものではなく毎日のお菓子として日常で楽しまれているものです。ここではのんびりとお茶を楽しむ時間が大切にされています。 松江と和菓子の関係を深めている理由は松江藩七代藩主・松平出羽守治郷(不昧:ふまい)公の存在です。
不昧公は自ら不昧流という茶道を完成させ、茶会で使われた和菓子の数々は、「不昧公好み」として現代に受け継がれています。
- 松平不昧公(1751~1818)について
- 松平不昧公もとい松江藩七代藩主・松平出羽守治郷(まつだいら でわのかみ はるさと)は宝暦元年(1751)江戸赤坂に生まれ、幼名を鶴太郎と名乗りました。
- 明和4年(1767)17歳で出雲国主七代となり、将軍家治から一字を授かり出羽守治郷と称すようになります。
治郷が松江藩主に就任した時、藩は度重なる天災等により破綻状態にありました。
治郷は家臣と共に人材抜擢・経費削減・殖産興業(松江藩御立派の改革)に力を入れ、その結果松江藩は全国でも有数の富める藩として再建を果たしました。 - 一方で茶の湯や禅学に熱心だった治郷は、明和6年(1769)19歳で麻布天真寺・大巓宗硯禅師のもとで禅の修行を積み、不昧(ふまい)という号を授かりました。
茶人として一流の才能を発揮し「茶禅一味(茶道と禅道の真髄は同一)」が示すように茶道にも傾倒。
「三斎流」「石州流」を極め、後に「不昧流」を完成させるに至ります。
また、優れた蒐集家でもあった不昧公は、茶道具を収集、調査、記録する(「雲州蔵帳」)という大事業をなし、工芸発展のため技術者の養成に尽力しました。
「天下の名物は一人一家一国の宝にあらずと知るべし」の考えのもと集められた名品は徹底した保護措置がとられ、国宝や重要文化財に指定される作品群が散逸せず現在まで残っています。
(参考文献 長尾遼「真説 松平不昧」、藤間亨「数寄大名 松平不昧」)
(関連サイト 「茶人 松平不昧の世界」)
不昧公の残された文化を受け継ぐ街、
和菓子処 松江
松江は全国でも有数の和菓子処で、 朝食の代わりに、抹茶とお菓子という方も多いとか。
不昧公の残された文化は今も脈々と受け継がれています。
彩雲堂が復活させた不昧公お好みの
「若草」。
春の「若草」、秋の「山川」、そして「菜種の里」は「不昧公お好み」三大銘菓として、 今も松江を代表される銘菓として人気を誇りますが、これらは明治維新以降一時途絶えていました。 その後、古老や茶人を訪ね文献を読み解いて、当社初代が明治中頃「若草」を復活させました。
和菓子職人の伝統技術と、歴史の気配をお楽しみいただけましたら幸いです。